2019年7月20日土曜日

「壊す」「壊れる」「壊される」

先日、なんか歩きづらい…と思って足元を見たら、




えーーーーっっっ!!


こんな壊れる????
びっくりだよ。
靴ってなんでいつもこう突然壊れるんだろうね…。

というようなことがあるといつも、友人であるウクライナ人女性が言った一言を思い出す。

「壊れたんじゃなくて、壊したんでしょ」

そうであった。
それを言われたとき、壊れたのは何かのケーブルだったけれども、コネクタ部分を持たずに線を引っ張ったり鞄にぐちゃっと入れっぱなしにしていたらちぎれたのだ。
今回だって、このサンダルで砂利道をかけまわったり山の中を歩き回ったりしたのは誰か。海にバシャバシャ入ったりフェスで跳ね回ったり、乱暴に扱ってきたのは誰か。

サンダルは自らひとりでに壊れたんじゃない。私に壊されたのだ。

ところで、私は上記の言葉を言われた時、猛烈に反省するとともに、日本語ネイティブじゃない彼女が「壊れる」と「壊す」を明確に使い分けたことにちょっとびっくりした。
だって、英語で考えると、この2つって、言い換えるの難しくないです?

例えば"break"って単語使うとする。

「このおもちゃはひとりでに壊れたんじゃない、あなたに壊されたんだ」

って、なんていう?
アメリカ人の友達に聞いて返ってきた答え。

"I didn't break this toy by myself, it was broke because of you."

…なんか、「私のおもちゃがおまえにこわされた」的な文章になってしまった。
そうじゃなくて、「誰」が出てこない文章が欲しかった、と説明すると…

"My toy broke. It was broke because of you."

うーん…。「ひとりでに」の部分を否定するニュアンスが消えた…。
というか、発話者の被害を被ってる感がすごい。受動態を使うとそこに引っ張られてしまうっぽい。

米国在住の妹に聞いて返ってきた答え。
This toy did not break, you broke it.

「壊れる」も「壊す」も全く同じbreakという単語を使っていますね。
目的語が無い自動詞であれば、被破壊側が動作の主になる「壊れる」に、目的語がある他動詞であれば、破壊側が動作の主になる「壊す」になるという感じ?文法的に、主語を必ず必要とし、語順のなかに文法的な付加的意味が必ず存在する英語においては、逆に言うと、「動詞」はその「動作」そのもの以上の意味は含まれておらず、その動作の主をにおわせる要素は無いのですね。日本語だと、「壊す」や「壊れる」には動作の主をにおわせる要素があるわけだけど、「破壊」という名詞にはその動作の主が壊す方なのか壊される方なのかという情報は含まれていないので、"break"って動詞は、意味の量としては「破壊」という単語に近いのかもしれないですね。

それにしても、妹のくれた文では「ひとりでに」の部分を否定するニュアンスがどうも弱い気がする…。

イギリス人の友達に聞いて返ってきた答え。
”This toy did not break itself. You broke it!”

子供がおもちゃを壊してしまった時なんかに親がいう決まり文句らしいです。
これはしっくりきますね。
受動態はやはり使わないのね。
そしてここで出てきたのが"itself"ですね。再帰代名詞というやつ。直訳すると「おもちゃが自分自身を壊す」みたいなニュアンスになるのかな。壊す者と壊されるものが同一ということ。

この再帰の感覚が、英語の場合、別の単語に分離しているから、"break"という動詞自体は1種類の動作しか存在しない。

一方、ロシア語の場合、再帰動詞というのがあります。

ломать: break
ломаться: break itself

この、сяの部分が、”itself”のニュアンスとして動詞にくっついてしまっている。
なので、英語より「壊れる」という単語のイメージに近いのかも。
だから、

あなたがおもちゃを壊した。
Ты ломал игрушку.

おもちゃが壊れた。
Игрушка сломалась.

という風に、言い分けることができるんですね。
ウクライナ人の友達はロシア語ネイティブなので、「壊れたんじゃない、壊した」という動詞の使い分けが親しみやすかったのかな、と、今になって思っています。(というか、彼女はウクライナ語ネイティブでもあり、ウクライナ語にも再帰動詞はあるんだと思う。)

ちなみに、ロシア語にも受動態があって、文法的には以下のようになる。
○○が(主格) + быть (be動詞的な奴) + 動詞の受動過去分詞 +  ○○によって(造格)

この文法を使って書くとこんな感じ。

Игрушка была сломана тобой.

でもこういう言い方ってしないな。
トラベシアの最新号「日本語について」に掲載されていた佐藤麻弥さんの文章を読んで、文法的に成立しない文のことを「非文」と呼ぶということを知ったんですけど、これもロシア語の非文というやつなのかな。そうは言わないってやつ。
文法としては存在するはずなのに、そうは言わない... なんでだろう?

と思って、フィンランド語の話に行きついた。
現在学習中のフィンランド語にも、再帰動詞が存在するっぽい。

ломать: murtaa
ломаться: murtua

じゃ、受動態は?と調べていたところ、稲垣美晴著「フィンランド語は猫の言葉」に、こんなことが書いてあった。

英語ではby誰、あるいは何と言うと、その行為の主がわかるが、フィンランド語ではそれは表現できないことになっている。それに想定される「行為主」は、人間あるいは人間のグループでしかありえない。印欧語で受け身を使うような表現は、フィンランド語では、能動態の再帰動詞を使ったり、同じく能動態の守護のない三人称単数の文を使って表現している

つまり、
1.行為の主がない、「ひとりでに」→再帰動詞
2.  特定できない誰かによる行為→受動態。ただし「~によってXXされる」の「~によって」の部分は表現されない。
3.「~によって」の部分が特定されるなら最初から「~がXXする」っていう。
ということですかね。

この感覚はちょっとロシア語にも通じるのかもしれなくて、なんというか、ロシア語の受動態も「おもちゃが壊された状態になっている」という、形容詞的な表現なのであって、行為の主がはっきりしてるならそれを主語にして能動態で書くよねって話ですね。
これは「~と言われている」みたいな日本語の受動態が英語では”They say”と表現されることと根本的には同じ現象なのかも。

こうやって考えてみると、日本語の「壊す」と「壊れる」と「壊される」のニュアンスの違いが動詞の中に含有されている感じって、英語とも、ロシア語やフィンランド語とも違う感じがありますね。再帰動詞の「自分自身を壊す」ニュアンスと、行為の主が無い「壊れる」はやっぱりどこか違う感じがする。

もちろん、だからと言って日本語の方が表現の幅が広いとかそう言う話ではないですよ。
ちなみに、私のサンダルの状況を説明して英文の例を挙げてもらったのは以下の通り。

アメリカ人の友達:
I broke my shoe while partying at the festival.

妹:
My sandals did not just come apart, I was too rough and ruined them.

イギリス人の友達:
My shoe just broke. I guess it must be something to do with all the jumping around at gigs and running in the sea.

表現の方法なんていくらでも無限にある。
ただし、「壊」という同語根を軸に「壊れる」と「壊す」の二つの単語を使って動作の主を180度回転させてみせるレトリックの華麗さは、日本語だからできる手法なのかなという感じがあります。

日本語ロック論争で有名なはっぴいえんどには、この手法を効果的に使用した歌詞の曲があります。松本隆作詞、細野晴臣作曲「しんしんしん」という曲のラスト部分。

都市に積もる雪なんか 汚れて当たり前という
そんな馬鹿な 誰が汚した
誰が汚した 誰が汚した

行為主のない「汚れる」を先に提示し、行為主の存在を回避できない「汚す」で、全体のイメージを逆転させている。お見事!!



ところで、北海道方言話者の私には、この、行為の主の位置づけについて、もう一つオプションがある。動詞の「~さる」、「~らさる」という語形変化、これです。

例えばスマホを片手で操作しているとき、親指で文字を打つのだけど、スマホをホールドしている方の中指や人差し指が画面に触らさって、意図せず文字が打ち込まさった消ささったりすることがあります。

テーブルの上に積んであった本が、リモコンの上に崩れ落ちて、電源ボタンが押ささってテレビがついた、とかいいます。

この前買った枕がめちゃくちゃ優れもので、なんぼでも眠らさるわ、とか。

なんていうか、行為の主にその意図はないのだけど、物理的に、システム的にそうなってしまうみたいなニュアンス。Let it be的な。

スマホをホールドする目的で置かれた指が、別の機能をはたしてしまってタッチ画面が動作してしまった。崩れ落ちた本はテレビを見たかったわけじゃないけど、落ちた先にたまたまリモコンの電源ボタンがあったというその状況が本にリモコンを押させた、「よし、眠るぞ!」という強い意志のもと、眠る行為を行ったのではなく、枕が「こいつを眠らせるぞ!」と働きかけたわけでもなく、その枕と体の相性が、そのシステムが、誰が主体の行為というわけでもなく枕使用者を眠りにいざなった。そういう感じのニュアンスで使ってると思います。

この感じは標準語だと文脈とかでそれとなく表現するほかなく、ドンピシャの語形変化や単語が無いのでもどかしくなる時あるのですよね。

そう、大好きだったあの私のサンダル、もちろんひとりでに壊れたんじゃないのはわかってる。だけど、壊したかったわけじゃない、ただ、あんなに毎日履いて履いて海入って砂がこすれたり、毎日走り回って、コンクリートがガンガン当たったりしてればそりゃ壊らさるよね。だからあのサンダルも私に壊されたわけでも砂やコンクリートに壊されたわけでもないんじゃ。

とか苦しい言い訳をしてみたりして。

と、いうわけで、「壊」という動作から展開する日本語の動詞表現の多様性について考えてみたわけですが、「壊」や「汚」のように「壊れる」「汚れる」みたいな形の存在しない日本語の動詞もいっぱいありますね。

例えば「選ぶ」は、「選ぶ」か「選ばれる」どっちか。
行為の主が全くない状態で「選出」がなされることはありえないし、再帰動詞のように、「自分自身を選ぶ」という動詞やその語尾変化も日本語には無い。誰かや何かが選ばれるには、必ずそれを選んだ誰かが存在する。そういう動詞です。

このブログを書いている今日は2019年7月20日。つまり明日は参院選があるわけですけれども。最近の参院選の投票率は20~30%台らしい。
つまり、7、8割の人々が選らばなかった候補者が、選挙というシステムの中で選ばさっているのですな。僕も私も選んでないけど、システム的に選ばさる。行為の主は不在である…。

そんな馬鹿な